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小林 悠(サッカー選手)インタビュー「温かいサポーターに、Jリーグで2連覇して恩返しがしたい」

2018.07.20

昨年、川崎フロンターレの優勝を牽引した。得点王にも輝いた彼は
Jリーグの大きな舞台で再び優勝するために、戦い続けているのだ。

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いよいよ大詰めを迎えているサッカーワールドカップだが、ここに日本を代表するストライカーが来ることはなかった。小林悠は、ケガのために代表選考から漏れてしまったのである。彼は「ワールドカップは、サッカー選手にとって特別な存在」と語っていただけに、非常に残念な想いだったに違いない。ただ、もうひとつ大きな目標がある。それが、Jリーグの連覇である。

彼が所属する川崎フロンターレは、リーグ戦、天皇杯、そしてルヴァン杯の国内3大タイトルでこれまで8回の準優勝を果たしていたが、優勝への道は遠かった。いつぞやシルバーコレクターと呼ばれるようにもなってしまった。しかし、昨シーズンのJリーグで初めて頂点に立ったのだ。

大きなポイントとなったのが、第29節のベガルタ仙台戦だったのは、間違いない。このとき、首位の鹿島アントラーズとは5点の勝ち点差。負けたら後がほとんどないこのゲームで、前半終了間際に家長昭博が2枚目のイエローカードをもらって退場。そして、その直後に仙台が先制した。後半にも仙台が得点して2-0。普通なら、これで終わり。だが、後半37分にエウシーニョが1点を取り、39分、42分に小林が連続でゴールを決めて、逆転を果たすのである。小林はシーズンを振り返った。

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「昨シーズンはケガ人が多かったし、監督も代わって(風間八宏氏から鬼木達氏)サッカーも変わりました。風間監督の攻撃的なこれまでのサッカーに、鬼木監督が攻守の切り替えや球際のしぶとさなど守備の部分を加えてくれた。ただ、最初のうちは守備に重点を置きすぎて、攻撃が弱くなってしまった。それを修正しつつ、ケガ人も戻ってきて、夏ぐらいからよくなっていったんです。ベガルタ戦では鹿島との勝ち点差を考えるとどうしても勝たなくてはいけなかった。そのなかでアキくん(家長選手)が退場して、苦しくなりましたね。ただ、後がないので1点取り返したところでは、みんながもう1点取りに行くぞという気持ちになっていた。それで、なんとか勝ちを手繰り寄せることができたんです。優勝するチームはこういう苦しい試合でも結果を出す。絶対にゴールを決めると自分は思っていました」

サポーターの力も大きかった。小林が同点弾を決めるとホームの等々力陸上競技場は「行け! 行け! 勝ちに行け!」の大コール。これに押されるようにして、3点目を奪取することができたのである。ただ、これで優勝できたわけではない。最終節までもつれ、最後はフロンターレの試合終了後に、アントラーズが負けたことで決着がついたのだ。まさに薄氷を踏むような優勝だった。

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「本当に奇跡が起きたのかなと思いました。鹿島の結果次第でしたから。これはチームのみんな、そしてサポーターの方々が努力したからこそだと感じていましたね。ただ、(中村)憲剛さんと目が合ったときには、もう本当にダメでしたね。キャプテンとしてずっと引っ張ってきて、たくさん2位を経験したなかで、歳も歳ですし(笑)、優勝しないままでいさせるわけにはいかないと思っていましたから。僕は去年からキャプテンをやらせてもらっているのですが、“憲剛さんはこんなに重荷を背負ってきたのか”ということをイヤというほど感じていました。だから、憲剛さんにとっては、本当に長かったし、辛かったんだろうなと思ったら、泣けてきちゃったんですよね」

自分が変わらなきゃ、確かにそう感じていた。

4歳のときに東京都町田市のスリーエス(SSS)というチームでサッカーを始める。1歳上の兄と一緒に入団した。そのころの記憶はほとんどないのだが、幼馴染みで現在J3のギラヴァンツ北九州で活躍する小野寺達也と、保育園でボールを蹴っていたことだけは覚えているという。そして、小野寺とは大学まで一緒にサッカーをすることになる。

「最初に楽しいと感じたのは小学校の3年ぐらいのときでしたね。ゴールを決めたときに、母が喜んでくれて、それがうれしかった。母のためにも、たくさんゴールを決めたいと思っていましたね」

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中学ではスリーエスの上部組織である町田JFCにステップアップ。ただ、ポジションは小学校のときはずっとフォワードだったのが、ミッドフィールダーへと変更される。
「中学で成長が止まってしまって、足もそんなに速くなかったので、ミッドフィールダーでパスを出す役目をやっていました。高校でも同じポジションです。スリーエスもJFCもすごく技術に重点を置くチームでした。リフティングでグラウンドを往復しないと、練習が始まらないみたいな。サッカーの基礎はここでできたと思っていますし、感謝もしていますね。ただ、フィジカルはダメ。長距離なんかは全然走れなくって。というか、実はメンタルだったのかもしれないです。走る前から、嫌だ、嫌だって思っていましたからね」

麻布大学附属淵野辺高校(現・麻布大学附属高校)に進学。この高校にはスポーツクラスがあり、実力を認められれば、推薦を受けることができる。町田にはJFCの他に、FC町田という強豪チームがある。この両チームの選手が、スポーツクラスにドッと入学したのである。「親たちも仲がよかったので、みんなで入っちゃえ」ってことだったのかもしれない、と小林は笑う。その結果、進学校なのに、小林が2年と3年のときに全国高校サッカー選手権に連続出場するのだ。これ以前も以降も、淵野辺高校はこの大会に出場していない。

「ただ、練習は厳しかったですよ。僕たちが入学したときにコーチが代わって、ボールを繋ぐサッカーを目指して、新たに始動することになったんです。夏の合宿とかがとくにキツくて、インターバルトレーニングで部員が一人でもタイムをクリアできないと、全員もう1回とか。足を攣って走れないヤツの背中を、みんなで押しながらゴールさせたり。中学のときみたいにイヤなんて言っていられません。そういうので、メンタルとフィジカルは鍛えられたと思います。ただ、自分が変わらなきゃいけないと感じていたのも確か。走れる選手しか試合に出られないから、ランニングも一生懸命やるようになった。そうすると自分も案外走れるんだなということに気づいた。そして、このことが、大きかったんですね」

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試合に出られるなら、ポジションはどこでも。

幼馴染みの小野寺が、早々と拓殖大学に進むことを決めた。だが、小林は悩んだ。これ以上親に迷惑かけてもいいのか、と。しかし、進学を決意。両親も自分が決めた道だからと、応援してくれた。そして、そこでポジションがフォワードに戻った。
「大学に入ってすぐに、監督からボールのもらい方とか、ターンの仕方がいいから、フォワードをやってみないか、と言われたんです。1年生だったから、試合に出られるならポジションなんかどこでもいいやと思っていたので、従いました。それからは、ずっとフォワードですね。ボールを出す側から、受ける側に変わったのですが、ボールをパスされたときに、相手をフェイントとかでだますのが面白くて、やりがいを感じていたのを、今でも覚えています。あとは、出す側の心理も、やっていたから何となくわかるんです。こんな感じで動けば、ここにボールを出してくれる、なんて具合にですね」

拓殖大学は当時、関東大学サッカーの2部リーグに属していた。だから、ほとんど注目はされない。1部とは実力が違いすぎるのだ。それでも、小林は1年時に新人王を獲得し、2年生では関東選抜チームに選ばれ、少しずつ注目を集めていく。選抜の大会にはJリーグのスカウトが観戦に来たりするのだが、それを知ったとき、初めて自分もプロになれるかも、と思ったようだ。ただ、「2部で関東選抜は僕だけだったので、肩身は狭かったです」と言うが。そして、大学3年になると、特別指定選手として、J2の水戸ホーリーホックに所属するようになる。このときJリーグデビューを果たすのだが、難なく対応することができた。自信も湧いてきていたのだが、卒業してJ1フロンターレに入ったときに、それはボロボロに打ち砕かれる。

「ディフェンスの対応が、まったく違うんです。当たりは強かったし、大学の頃はドリブルでするする抜けていけたんですが、プロになってからはなかなか抜けなくなった。それで、自分のプレイスタイルを少しずつ変えていきましたね。自分は瞬発力があるので、そこで勝負しようと思い、プロ2年目からは、ワンタッチでゴールを狙えるポジションに入るということを意識したんです。そうしたら、その年に2ケタの12得点することができた。自分のスタイルができたことで、ここでやっていけそうだなと初めて思いました」

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2017年、フロンターレが初優勝したことは前述したが、もう一つ大事なことがある。それが、小林の得点王だ。チームの輝きとともに、天性のストライカーが、初めての栄誉を授かり、ついにその点取り屋としての才能が花開いたのだった。
さて、昨シーズンのフロンターレはリーグ戦以外も戦っていて、平均週2回の試合が組まれていた。これは、とにかく過酷な状況である。こなしていくだけでも実に大変なのだ。

「筋力トレーニングなんて、全然できません。リカバリーが主になりますね。シーズンが終わったときも、疲れは溜まっていますので、まずはカラダを休めたい。家族と旅行に行ったりして、リフレッシュに努めます。それから、家のまわりを走ったりとか、体幹なんかのトレーニングをやり始めて、シーズン前のキャンプに入る。ここで本格的な練習が始まります。午前と午後の2部練習に、ウェイトトレーニングなども入ってくる。これを1週間もやれば、カラダがバッキバキになるので、そこが一番キツいところでもあるんです」

今年もすでにシーズンが始まっている。これまでのフロンターレの成績は8勝4敗3引き分けの3位(6月18日現在)だ。これから先が楽しみな数字を残している。小林は今、どんな思いでいるのであろうか。

「フロンターレのサポーターって、優しいんですよ。他の強いチームのサポーターってのは熱心なんですが、同時に強さとか、怖さもある。不甲斐ないゲームだと、ブーイングが起きたりとかです。でも、うちのサポーターはそういうことがない。本当に温かいんです。負けたゲームでも“次はがんばろう”と言ってくれますし、他へ移籍した選手が等々力(陸上競技場)に戻ってくると、拍手で迎えたりする。だから、このサポーターのために勝ちたいと思いますね。今年、2連覇して彼らに恩返しをできればいいと思っています」


●こばやし・ゆう 1987年生まれ。177cm、73kg。町田SSSでサッカーを始める。淵野辺高校時代、2004〜05年と全国高校選手権に出場。拓殖大学3年のときに特別指定選手として水戸ホーリーホックに所属。10年より川崎フロンターレに。昨年リーグ優勝し、得点王に輝く。


Tarzan No. 745 この夏こそ、脱げるカラダになる! 掲載 〉
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴