Oct22Mon

河端朋之(競輪選手)インタビュー「技術的にも、そして肉体的にも、まだ伸びしろはある」

2018.06.26

競技人口が少ないから、すぐに日本一になれるよ。
そんな甘言に乗っかるように自転車を始めた少年は、世界選手権で活躍し、東京オリンピックを目指す。

河端朋之1

今年、2月28日に開催された世界選手権自転車競技大会トラックレース(UCIトラック世界選手権大会)。男子ケイリンで、見事、銀メダルを獲得したのが河端朋之である。河端は1回戦で2位となり、敗者復活に回ったが、ここで1位となり勝ち上がる。そして、2回戦は3位で通過して決勝へと駒を進めた。日本人のメダルは、同種目で1993年銅メダルだった吉岡稔真以来、25年ぶりの快挙である。まずは、この大会について聞いた。

「当時の僕には出場枠がなく、世界選手権に出るには、まずは2月16日から開催されたアジア選手権で優勝することが必要だったんです。だから、1月の合宿ぐらいから、まずはアジア選手権を目標にしようと、コーチとは話し合っていました。そこで思い通りの走りをすることができ、優勝できたので、まずはよかったと思いました。それで、すぐに世界選手権となったのですが、一番危なかったのが2回戦でした。リスキーな場所に突っ込んでいかないと、着順で敗退する感じだった。でも、走りながらだと、当然、危険よりも決勝進出という考えになりますね。それで、どうにか3位に入って決勝へ進むことができたんです」

「決勝では、普段コーチから言われているように、相手がどうというよりは、自分のタイミングで仕掛けることを意識して走りました。最後のコーナーでインを走る選手と並行して走っていたんですが、ここで(ペダルを)踏めたのがよかった。コーナーで並行して走っているということは、外を走っている僕のほうが、スピードが出ているということなんです。だから、最後の直線でも踏み続け、捲ることができて2位になれた。ただ、1位には全然届いていなかったし、決勝に残った選手は全員、本当に強かったという印象を持っています」

河端朋之2

ケイリンは日本の公営競技である競輪をもとにした自転車競技。が、この2つは大きく違う。まず、トラックの長さが違う。競輪ではバンクというが、こちらは333〜500mであるのに対し、ケイリンは250mだ。カントと呼ばれる傾斜角も異なる。周長が長い競輪場が約30度なのに対し、国際大会は約45度にもなる。つまり、国際大会のケイリンのほうが、一周が短くカントもキツイため、スピード感溢れるレースとなるのだ。

そして、最大の違いが、ライン戦と個人戦ということ。競輪では風の影響を避けるため、主に同じ地域の選手同士が協力して、一列に並んで走るラインを形成する。本番では、このラインが2〜3本でき、勝負が展開されていく。一方、ケイリンでは個人個人が互いを牽制しつつ、競技が進んでいくのだ。つまり、個々の能力が試されるという部分ではケイリンが勝るし、ラインからの展開を読んで結果を予想する楽しさ、つまり、ギャンブルにおいてのコクという意味では、競輪に軍配が上がるのかもしれない。

「バイク自体も全然違います。競輪は速さを追求するよりは、頑丈な車体となっています。クロモリと呼ばれる素材でできているんですが、公正、安全を考えてのことなんですね。一方、ケイリンは軽さ、速さを追求している。車体の素材はカーボンで7kgほどの重量しかありません。いろんなことが、違いすぎるほど違う。だから、この2つは自分ではまったく別の競技だと思っているんです」
そして、河端はこの2つの違いに苦しめられることになったのだ。

河端朋之6

競輪選手に会って、スゴイなぁと思った。

鳥取県の倉吉工業高校に入学したときから、自転車競技を始める。最初は陸上部に入るつもりだったが、部員がみんなあまりにも強いので断念。そんなとき、自転車部の顧問だった担任にやってみないかと誘われた。その先生の誘い文句がうまかった。競技人口が少ないから、すぐ日本一になれる。それで、「日本一になれるなら、やってみようかな」と、軽い気持ちで入部を決めたのだ。

「初めてロードレーサーに乗ったときは、楽だったし、速いなぁと思いました。それまでママチャリで必死になって行っていたところも、近場に感じるし、上り坂も楽勝。これは、本当にスゴイなって感心しました」

ただ、いくら競技人口が少ないからといって、そう簡単に強くなれるわけはない。練習は厳しかった。
「土日もほとんど練習でした。ただ、厳しいけれど、そんなに苦になるということではなかった。みんなで楽しくやっている感じ。部員全員で150kmぐらい乗りに行ったり、地元の自転車競技場で、ダッシュの練習をやったり。日々、着実に強くなっていっている感覚はありましたね」

その感覚は間違いではなかった。県大会、中国大会には高校1年から、インターハイも2年から出場した。ただ、トップクラスまでには至らなかった。全国大会では予選敗退という程度の選手だったのである。

河端朋之4

高校卒業後は、同校の実習助手などを務めながら競技を続けた。そして、卒業の翌年にジュニアアジア選手権に出場できることになった。

「エリートのアジア選手権も同じときに開催されて、そこで初めて競輪選手と会ったんです。それで、とにかくスゴイなぁと思ったし、一緒に行ったジュニアの選手たちも、ほとんどが将来、競輪選手になると言っていました。鳥取には競輪場がないですから、選手になるなんて考えたこともなかったですが、そのとき初めて目指そうと思ったんです」

ところが、その翌年から2年連続で日本競輪学校の試験を受けるが、落ちてしまう。このままではダメ。そう思った河端は仕事を辞めて岡山へ居を移す。そして、鳥取出身の競輪選手、岡山支部の竹本茂氏を師と仰ぎ、練習漬けの毎日を送ったのだ。結果はすぐに表れた。翌年の競輪学校に合格。さらに、入学前に開催された国体に出場し、スプリントという種目で優勝を果たすのである。

で、競輪学校である。鬼の指導と、厳しい規則で有名だが、こと河端に関しては、面白い話はまったく聞けなかった。「社会人を経験していますから、練習は厳しかったけど、生活面ではまったく苦労しませんでした」と、サラッと流すのだ。つまらん! 約1年でサクッと卒業した2009年、競輪選手として堂々デビュー。普通なら、このまま競輪一筋ということになるのだが、河端は11年からスプリントやケイリンの競技にも参戦するようになる。理由がある。

「当時、チャレンジ・ザ・オリンピックという記録会があって、そこで(日本代表などの)強化選手を決めていたんです。それに出場したら、ひとつ下の強化育成選手に選ばれた。そこから、また他の競技を始めるようになったんです」

河端朋之5

ここで、ひとつ大きな悩みが生まれる。競輪とケイリンの両立である。競輪選手は、ひと月の3分の1ほどの日数がレース日となる。そして、これをこなしながら、ケイリンの大会に出場しなくてはならないのだ。

「どうしても重なるときは、競技を優先させて、競輪を休んだりもしました。ただ、競技のためのまとまったトレーニングはできないし、250mのトラックは伊豆の修善寺にしかない。だから、各地で競輪のレースをやって休みになると、トラックに戻って何日か練習するといった感じになる。どっちつかずの状態で、ジレンマに陥っている感じでした」

2つの異なる競技が河端を苦しめたし、競輪、そしてケイリン向上の妨げにもなっていただろう。日本ではケイリンの成績が残せても、海外で勝てなかったのが何よりの証拠だ。しかし、一昨年に状況が変わる。日本自転車競技連盟と公益財団法人JKA(競輪とオートレースの振興法人)が、自転車競技の選手育成を目指し、大胆な改革を行ったのだ。これが、河端の銀メダルへと繋がる。

改革のひとつが、10月にブノワ・ベトゥ、ジェイソン・ニブレットの両氏をコーチとして招聘したこと。ブノワ氏はリオデジャネイロ・オリンピックで中国代表のヘッドコーチを務め、女子をチームスプリントの金メダルへと導いている。そして、競輪の出場回数が減ったこと。月に1回、最高峰レースのGⅠ、2番目のGⅡ、あるいはそれに準じたレースに出るだけでよくなったのだ。これで、ケイリンの練習時間が飛躍的に増えた。さらに、選手には生活のために一定の金額が補助されるようになった。ただし、競輪の賞金に比べたら、問題にならないほど少ない。

「お金は少なくはなると思いましたが、競輪はこれから先、かなりの年齢までできます。でも、ケイリンは若いうちだけ。環境を整えてもらって、しっかりとカラダを鍛えることができるし、トレーニング理論などを学べるようにもなった。これが、先の競輪人生にも生きてくると思います。だから今は、ケイリンを中心に生活していきたいんです」

河端朋之3

「もう2年しかない。練習を継続するのみ」

その生活だが、スゴイの一言。週5日のトラック練習と、週3回のウェイトトレーニング。トラックではインターバルトレーニングやスピードトレーニングで汗をかく。そして、ウェイトでは、その負荷が半端ではない。たとえばレッグプレスは片脚200kg以上、ロウイング140kg以上、ヒップレイズは180kgのバーベルを腹に乗せて行う。とてつもなくハードな練習に取り組んでいて、終われば精根尽き果てるのである。遊ばないんですか?と聞くと、「ほとんどないですね。たまに、みんなでご飯を食べる程度です」と笑う。もちろん、酒なんて一切飲まないし、トラックとその近くにある住み処を往復するだけの毎日なのだ。こんな、まるで修行僧のような生活を、2020年まで続けるのである。そう、目標は東京オリンピックだ。

「もう2年しかないという思いがあります。あとは、練習を継続していくだけですね。トレーニングの内容は、もちろん変わっていきます。たとえば、走るときのコース取りだったり、ギア比の変更だったり、走り方自体も、練習すればするだけ伸びしろが見つかるので、さらに質を高めていけると考えています。技術的にも肉体的にも、もっと向上させたい。それは必ずできますよ。だって、練習のたびにコーチにダメ出しされますから(笑)。今回、世界選手権で銀メダルだったので、もちろん東京では金メダルを獲りたいですね」


●かわばた・ともゆき 1985年生まれ。170cm、73kg。2009年、競輪デビュー。12年、全日本プロ選手権のスプリントで初優勝。13年、全日本選手権でケイリン3位。15年、アジア選手権トラックでスプリント2位。18年、アジア選手権でケイリン優勝、世界選手権で日本人25年ぶりとなるメダル獲得。


Tarzan No. 743 ウデタテ、フッキン、スクワット 完全BOOK 掲載 〉
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴