Aug23Wed

羽根田卓也 カヌー選手

2017.02.21

東京五輪は集大成の大会になる。だから金色のメダルしかない。

日本人はメダルとは遥か離れた場所にいると言われたカヌー競技。初めてオリンピックで銅メダルを獲得した彼は、3年後に向かい、さらに高みを目指していく。

羽根田卓也

昨年のリオデジャネイロ・オリンピックのカヌー競技で、アジア初のメダルを獲得したのが羽根田卓也である。彼が見事、銅メダルに輝いた種目は、スラローム・カナディアンシングルだが、ひとつスラローム競技について説明したい。スラロームとは、もともと川の一定区間を区切って、そこに設置したゲートを順に通過していき、その速さを競う競技。もともと、と記した理由は、今のオリンピックは人工コースで行われているからだ。
話を進める。競技ではゲートを通過できなかったり、ゲートに触れてしまうとペナルティが与えられ、タイムに加算される。難しいのは、上流から下流に向かって通過するダウンゲートのほかに、下流から上流へと通過するアップゲートがある点だろう。とてつもない激流でパドルを漕ぎ、カヌーを上流へと進ませゲートを通過し、クルリと回転をして下流を目指す。流れに負けないためには、強い筋力が必要になってくるし、奔流に吞み込まれずにカヌーを操るためには、研ぎ澄まされたバランス感覚も必須の条件となる。とにかく、競技の激しさは見る者を魅了してやまない。まだの方は、一度ご覧いただきたい。それを踏まえ、羽根田にオリンピックについて聞いた。

羽根田卓也
©ミキハウス

「もし、メダルを取ったらどうなるんだろうと想像しながらやっていたので、予想通りというか……、(涙が)ホロッどころじゃなくて、止まりませんでした。自分なりに一生懸命練習してきて、やっと届いたメダルだったので、感激しました。前はそんなことはなかったのですが、今はいろんな人に声をかけていただいて、改めてオリンピックの力を感じますね。地元(愛知県豊田市)の人にも喜んでもらえて、これもうれしかったですね」

実は、カヌーのスラローム競技では、日本人がメダルを取ることは難しいと考えられていた。その大きな理由は環境だ。前述したように、オリンピックをはじめとする国際的な大会では人工コースを使って行われる。そのコースが日本にはないのである。日本人選手が練習を行うのは自然の激流、つまり山裾に流れる川だ。気象状況によって流れは変わるし、練習ができなくなってしまうことだってある。常に同じ状態で練習が行えないのは、致命的なことなのだ。そして羽根田は、この環境を自分の強い意志で変えることで、メダルへ辿り着いたのである。

羽根田卓也

これは人生を懸けて、一生懸命やっていこう。

実は、父親がカヌーの選手だった。羽根田自身は小学校1年生のときから器械体操をやり、9歳になって本格的にカヌーを習い始めた。体操では、バック転まではできたという。そして、この素地が「今、すごく役立っている」と話す。
「僕はヨーロッパ(カヌーの本場)の選手に比べて体格は小さいし、フィジカルは弱いんですけど、器械体操で小さい頃に培った身のこなしとか、柔軟性というのはスラローム競技に生きていますね」
本格的に始める前に、幼いころ何度かカヌーには乗ったことがあるが、それほど記憶には残っていないらしい。そして、小学校3年生で乗ったときの感想は?
「水の上に浮かぶというのは、なかなか日常生活の中ではないので、気持ちいいなぁと感じました……けど、すぐに父が自分を選手として練習させ始めたので、なかなか辛かった。寒い日のカヌーはたまらないし、激流は怖いし、イヤイヤで克服できずにいましたね」

回数をこなす。そして、小さな波から大きな波へとステップアップしていく。少しずつ自分を慣らした。小学校4年からは、父の勧めで大会にも出場するようになる。兄もまた選手だったから、親子3人でいろんな場所へ遠征に出かけた。
「富山県に井田川という川があって、ここは今でも日本選手権が開催される場所なんです。日本屈指のカヌーコースで、初めて行ったのは中学生のときだったのですが、洗礼を受けたんですよね。流されちゃって、危うい経験をして……。もうイヤだと思ったのですが、兄が怖くて、彼の怒号を浴びながら、その井田川で毎日練習したんです。やっていけば、当然、慣れます。激流というものがまったく怖くなくなって、逆に怖さが魅力になった。それからですね、スラロームに本格的に魅せられていったのは」

羽根田卓也

スラロームに夢中になったきっかけは、もう一つあった。中学校3年生のときに、ポーランドで開催されたジュニアの世界大会に、初めて出場したのである。そこで世界のレベルを目の当たりにした。
「それまでもカヌーは好きだったけど、あの大会を経験したことで、はっきり競技として捉えるようになりました。自分の中で意識が変わった。それで、“これは人生を懸けて一生懸命やっていこう”と、そのとき決めたんです」

大会では何が違うのかわからないぐらい、実力の差を感じた。この差を埋めていかなくてはならない。地元・豊田市の社若高校へ進学した羽根田は、カヌー部に入学する。朝6時前に家を出て、自転車で40分かけて練習場である矢作川の上流に行き、1時間ちょっとの練習。終わったら自転車は置いておいて、ここからスクールバスに乗って、学校へ。昼休みはチャイムが鳴ったら、懸垂などで体力強化。授業が終わったら、また練習場へ戻って日が暮れるまで練習プラス陸上トレーニング。帰宅は午後9時過ぎ。これを高校3年間ずっと続けたのだった。
「カヌー部といっても、部ではカヌースプリントという競技を行っていました。スラロームは僕一人で、練習はすべて自分で考えてやっていました。トレーニングの知識も理論もわかっていませんでしたから、ただ、がむしゃらに量をこなせば強くなるとしか思っていませんでした。闇雲ではあったけど、この3年間でやったことは今でも自分の大きな柱になっていますね」

羽根田卓也

その結果は高校3年生で日本選手権を制したことで花開く。また、ジュニアの世界大会でも、6位という結果を残すことができた。そして、卒業後に大きな決断をすることになる。
「日本にいては絶対に勝てない。それで海外へ行こうと思ったんです。ただ、そのためには父親を説得しなくてはいけない。そんなに簡単に許してくれるとは思っていなかったので、チェコに行くと言ったんです。チェコは高校生のときに何度も行っていて、ある程度現地で頼れる人もいた。だから親としても許可しやすいんじゃないかな、と考えたんです」

ところが父は息子に、スロバキアのほうがいいのでは、と提案した。かの地に知り合いはいなかったが、アトランタ・オリンピック金、シドニー銀、アテネ銀、北京金、ロンドン銅という凄まじい成績を残した憧れの選手、ミハル・マルティカンがいた。そして、スラローム競技が強い国として知られてもいたのである。
「そういう場所に、父から行ってこいと言われたのはうれしかったですね。とにかく物怖じしない性格なので、スロバキアへ行く不安より、日本にいてはいけないという危機感のほうが強かった。スロバキアへ行って困ったことは、コーチがまったく英語が喋れなくて、これがスロバキア語を覚えるきっかけとなりました。コーチが英語を勉強するより、僕がスロバキア語を覚えたほうが早いと思って(笑)。ただ、日本人どころか外国人もいないような町だったので、歩いていると指差されて笑われるなんてしょっちゅう。それでも、治安が特別悪いということもなかったので、今振り返っても、いい経験だったと思います」

午前と午後に1時間半ずつ、カヌーに乗る。プラス1時間強の陸上トレーニング。これが、毎日の練習である。運動強度が高いので、これ以上は無理なのだ。しかし、スロバキアでは確実に力をつけていった。
「スロバキアでの経験で、日本人は勝てないということが改めてわかりました。人工コースというすばらしい激流で毎日練習でき、世界レベルの指導をしてくれるコーチもいて、クラブチームのサポートもある。競技に専念できる環境が揃っていて、そんななかで努力をしているのがヨーロッパの選手なんです。日本人選手にそれに立ち向かえと言っても、努力だけではどうにもならないと思いましたね。選手に“努力が足りない”なんて言っても、それは何の意味もないんです」

羽根田卓也

この競技はとても激しくて、全然、地味ではないんです。

ただ、近い将来、この状況が崩れる可能性が大きい。それは、2020年に東京オリンピックが開催されるからだ。スラローム競技の人工コースが、東京の葛西に新設されることが決定している。
「東京オリンピックでは日本に初めて人工コースができて、それを日本のみなさんに見ていただく絶好のチャンスですし、盛り上げられたらいいですね。今回のリオでスラローム競技の面白さには気づいてくれたと思うので、次は気づくだけではなくて、この競技に火をつけられるような活躍をしたいです。カヌーは地味だとよく言われるんですが、激しいし、まったくそんなことはない。少しルールを覚えてもらえば、見応えのある、すばらしい競技なんですよ。僕自身は、これから東京に向かって大きく環境を変えたり、意識を変えたりすることはないと思います。これまでやってきたことが銅メダルに繫がったので、この先もずっと続けていきたいです。一番のハンディとなっているのは、やはりフィジカル面ですね。トップの外国人選手に比べると、明らかに劣っている。だから、バランスボールで体幹を鍛えたり、巧緻性を高めたり、ウェイトトレーニングなどで強化します。オフシーズンにはクロスカントリー、サッカーやスカッシュなどの他競技にも取り組んで、いろんな体勢でパワーが発揮できるようなカラダを作っています。東京五輪は自分の中では集大成の大会になると思う。だから、もっともいい金色のメダルしかないと考えています」


●はねだ・たくや 1987年生まれ。175cm、70kg、体脂肪率10%。2008年、北京オリンピックでは予選14位。12年のロンドン・オリンピックで7位入賞を果たす。14年の世界選手権は5位、同年のアジア大会では金メダルを獲得。15年、五輪テスト大会で銀メダル。16年のワールドカップでは日本人初の3位となる。同年、リオ・オリンピックで銅メダルを奪取する。ミキハウス所属。


Tarzan No.712 やせRUN/ガチRUN 掲載 〉
取材・文/鈴木一朗 撮影/藤尾真琴